2026/01/04

20251231-20260104_熊野古道越年山行(5日目)

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Day5--2026/1/4  (Sun) 行動時間約8時間半 登立茶屋跡~那智~速玉大社
最終日の朝がやってきた。おはよう世界。なんだかあっという間だったなぁ。
毎朝カレーメシを食べ続けていたが、この日だけモンベルのサーモンチーズリゾッタだった(今530円もするのね・・・)。とっくに期限は切れていたと思うが、昔買っておいたものをようやく今回食べてみた感じ。美味しかった。朝はあんまり早く出発しても那智大社が開いていないかもしれないと思い、一旦5:10くらいにアラームで起きたが二度寝して、6:00起床7:00出発とした。

大雲取越が終わって降りてきたところには公園があるようだった。幕営できそうな公園かどうかは行ってみないと分からないなーと思っていたが、到着してみたら完全に幕営適地だった。ここでテント張っても良かったな。但し、標高は低いとはいえあまりにもだだっ広いので風は抜けそうだし寒かったかもしれない。トイレ・水道完備。景色良し。
そこから程無く、八咫烏に導かれて那智大社に到着した。眼下に広がる広い神社の敷地に、凛とした佇まいの閑かな社が見える。最終目的地の速玉大社はまだ先だが、一旦交通量の多い車道に出てから繋げる感じになると思っていたので、那智は一区切り感が強かった。
早朝のため、まだ歩いている人も少ない
(とはいえ、観光地なので宿泊客はちらほらいる)
速玉神社直行ルートから少し逸れたところに滝があるため、分岐地点にザックとトレッキングポールをデポして滝へ向かう。滝への通路は8:00から開放とのことだったが、私が到着したのが8:03!二度寝して良かった、あまりにもタイミングが神懸かっている。
初めてお目にかかる那智の滝は思ったより小ぶりだったけれど、それは私が勝手に称名滝やハンノキ滝くらいのものを勝手に想像していたからそう感じただけであって普通に大きい。というか那智の滝は直瀑で、称名滝は連続瀑ということらしい。言われてみたら確かに那智は直瀑だな。そうか、これを見てクライマーは登りたいと思ってしまうのか・・・。自分も少しはクライミングを齧った時期があったけれど、これを登りたいとはあまり思えないので矢張りクライマーではないんだなという気がした。登れる気がしない。でも、ただただ美しかったし、この落ち口は自分の目で見てみたいなとは思った。因みにドローン禁止の看板が立っていたw
夏とかはもっと水量も多いのかもしれない
そして10年以上ぶりくらいにおみくじを引いたら大吉が出た。こんなもの引いてしまったら何か御守りを買わずに立ち去るという選択肢がなくなってしまうではないか。ということでここでも手拭いやら健康祈願の根付やらを購入。宿泊費も飲食費も全然かかっていないのに神社にばかりお金を落とし続けている旅である。
この先きっとコンビニはいくつも通るのだろうけれど、ちょっとなにかこのエリアでしか食べられないようなものを行動食として追加したいと思ったが、那智黒ソフトクリームとか寒そうなものしかなかったので、売店でお滝もちというお餅を頂くことにした。店の外観が物販の店のようだったのでテイクアウトしようと思ったら1個売りがなく、イートインなら焼き立てが食べられるよと案内されたので店内で図らずも僅かなティータイム。
中に餡が入っていてとても美味しかった。販売品にはミカンの餡入りのものもあった。
那智でしっかり1時間も観光をしてしまったがまだ時間に余裕がある。元々のタイムテーブル通りにしか進めていなかったら正直滝を見る時間もなかったかも知れない。前倒しで歩けて本当に良かった。
石段をゆく
推定樹齢800年という夫婦杉
その後も熊野から独立した神社みたいなのが道路のあちこちにあって、立ち寄りながら速玉神社を目指して進んでいった。一応、道脇の神社には全部立ち寄った。
観音菩薩が住む「補陀落」に行くための殉教の船だそう。窓もドアも何もない船室に入り、人々は死の直前まで菩薩に祈りを捧げられるようになっていたのだとか。狂気じみている。
これはその船のレプリカ
海岸沿いの国道を歩いたり、はたまた時折ちょっとした峠道やトレイルにぶち込まれたりなどして無駄にアップダウンをさせられながら進む。トンネルがあるのにトンネルは通らせてもらえずにわざわざ上へ登らされたりするので段々面倒臭くなってきた。普通に道路進ませてくれてもいいんじゃないのかと思ったりもするが、まぁとりあえず言われるがままのルートをこなしていく。最後の最後でショートカットして完走(完歩)っていうのもなんだか負けた気がするのでね。
とはいえ絶対この辺ショートカットしてる人多いだろ、という感じの薄い踏み跡w
海岸沿いは日当たり良好のため、手拭いを巻いて進む。今回の旅には、大峯奥駈の時に本宮で買った手拭いを持参した。
この後がっつり砂浜を歩かされて滅茶苦茶疲れたw
この直前に中国人のパーティと会って少し話したが、その後全然後ろを追って来ないので、砂浜歩くなんて私がルート間違っているんだろうか!?と焦った。。。
(帰宅してから調べたが、矢張りここで合っていたみたい。中国人はどこへ消えたのか?)
ここもまた途中の神社のうちのひとつ
下山後の温泉が速玉神社界隈に無く、唯一の銭湯も年始休業日だった。那智の道の駅の温泉も休業中。紀伊勝浦まで移動すれば温泉に行けそうだったが肝心の紀勢本線の本数が極めて少ない。しかしあれやこれや時刻表をにらめっこしていると、なんとか勝浦へ行って新宮(高速バス乗り場)へ戻って来られそうだという目途が立った。スマホをぽちぽちいじりながら、ついに私は速玉神社に到着した。長かったようで短く、短かったようで長かった。やり切った。
人が写り込まないように撮影してはいるものの、街中からのアクセスの良さ故か本宮や那智よりも圧倒的に人が多かった(時間帯的な理由もあるかもしれない)。御守コーナーなんてもう人だかり。人ごみ。凄い人。速玉大社という名前、実は私は今回初めて知ったのだけれど、こんなに人が集まるのだからきっと相当有名なのだろうね。熊野三山のうちのひとつだしね。
初日に歩いた高野三山に関して言えば3つの山のピークを踏んでその名の通り「三山」で、登山を嗜む身として鳳凰三山とか白峰三山とかそういう山が三つあるのを三山と呼ぶものだと思い込んでいる節がある。なので、熊野三山という言葉を最初に目にした時、私は一体どの山が熊野三山なんだろうと思って地図を凝視していた。詳しい人にとっては常識なのだろうけれど、本宮・那智・速玉の3つの神社を三山と呼ぶらしく、過去(前世)の罪を浄めるのが「速玉」、現在(現世)の縁を結ぶのが「那智」、未来(来世)の救済を司るのが「本宮」で、これらを巡ることを「三世(さんぜ)の巡礼」と呼ぶのだとか。これにより過去・現在・未来の安寧が得られるらしい。神社は山ではないのに何故三山と呼ぶのかに関しては諸説あるようだが、山自体が神様として信仰の対象になっていたという話はよく聞くことだから、強ち不自然なことでもない。

ここでは午の描かれた小皿を購入した。根付も手拭いもあちこちで買いすぎだろうよと思っていたところに、小皿だなんて粋じゃないの。紫蘇の実の塩漬けとか美味しい梅干しとかを載せたりなどしたい。
人に教えてもらった和菓子店に立ち寄り、鈴焼と最中を購入。新年早々大盛況で、入店時には列ができていた。
いそいそと新宮駅に戻ってここからは時間との勝負。というか電車に乗り遅れると平気で次の電車が2時間来ないとかそういう感じなので緻密にいく。まずは一杯やりながら乗り鉄で紀伊勝浦まで。
からあげクン1個増量中♪
海を見ながら30分弱の電車の旅。写真に写りこんでいるおじさんもワンカップをやりながら乗っていて、見ているだけでこちらが幸せな気持ちになる。
玉乃湯にてひとっ風呂、続いて狙いを定めて向かった居酒屋は年始休業のため別の店に飛び込み。軽くやってから再び電車で新宮へ戻り、高速バスで都内へ直行(新宮から都内の直行があるのがなかなかすごいと思う)。
日本酒は和歌山の太平洋を冷やでいただく
営業している店が少なく、営業している店にお客さんが集中していたためここも混んでいたがとりたてて美味しい訳でもなかったwww写真はカキフライ。
夜行バスで翌朝都内着、その日は仕事始めでした。
以下、お土産の記録。
左、那智セット(手拭いと、健康祈願の根付)
右、本宮セット(手拭いと、導きの神様八咫烏の根付、無料の年賀記念ステッカー)
中央下、速玉の牛年小皿
熊野三山というお酒が激推しされていたが、スペックと価格のバランスが悪そうと判断してこちらの太平洋をチョイス。精米歩合60%の純米酒。
右が人気の香梅堂の鈴焼

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古の人々が代々踏み固めたところが道となり、そしてまた現代まで途切れることなく人が歩き続けているからこそ今もこうして熊野古道は道としての姿を保っている。熊野古道に限った話ではないが、誰も歩かなくなってしまったら道は道ではなくなってしまう。そして誰か1人が歩いても道は出来ないけれど、誰か1人が歩かなかったからといって道が道でなくなるという訳でもない。つまり私が歩かなくてもほかの人達が歩き続けていれば道は道であり続ける。でも、私だって歩いたのだ。私が踏みしめた一歩一歩が、いつか誰かの歩く道になるというのなら、私が生まれてきた意味も多少あるのかもしれない。私は自分がこの世から消えた後の世界をほんの僅かでも良くしたり、影響や形あるものを残したりできていないという自覚がとても強くて、大袈裟に言えばスティーブ・ジョブズみたいなのも1人の人間であるのに自分は同一単位の1人の人間のくせに何も残せず本当に無意味な存在だななどと思ったりすることが多いのだけれど、それでも私はこの世界を作っているひとつの要素なのかもしれないなぁと少し思えた。少なくとも、道が道であり続けるために土を踏み固めたたくさんの人のうちの1人ではあるのだ。段々何が言いたいのか分からなくなってきたが、まぁ、うすぼんやりとした安心感というか、生きていて良いんだよと何か大きな存在に認めてもらえたようなそんな感じの穏やかな安心感に包まれたみたいなことだ。別に私は信心深くもなければスピリチュアル系大好き人間でもないし、パワースポットとかいう言葉も糞喰らえという感じで、なんなら小中高大と16年間ミッション系だけれど、あれこれ抜きにして想像以上に色んなことを感じる旅だった。行って良かった。急に行こうという気になったのも、何かの導きだったのかもしれないなと思う。八咫烏だろうか。

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楠の久保旅籠跡で読んだ豆腐のくだりが忘れられずに紀伊勝浦の呑み屋でも冷奴を頼んだのだが、帰宅してもなお美味しい豆腐を味わいたい欲求はおさまらなかった。こうなったら全力で冷奴と熱燗をやるぞ!
しかしふと冷静になって、そもそも旅籠で旅人は酒を吞んだのだろうか?という疑問が湧いてきた。調べてみると、巡礼の旅の途中ということもあり旅籠ではほとんど酒は提供されていなかったようだった。呑んでも軽く体を温める程度でお猪口に1杯程度だったという。冷奴と熱燗をやろうじゃないかってのはちょっと違うようだ。とはいえ自分はもう旅を終えていて今旅籠にいる訳ではないし自由気ままに勝手にやればよい。因みに当時の旅人は道中で酒を嗜まない代わりに下山後は海鮮だとか油ものなんかをアテに勝浦あたりで呑んでいたのだという。そんなこともあり勝浦は飲み屋街文化が盛んなのだそうだ。納得である。

当時旅籠で出されていた豆腐は湯豆腐だったり、冬でも冷奴であったりもしたそうだ。そして冷奴には少量の味噌と生姜が添えられていることが多かったらしい。あと、旅籠というのは普段下界に暮らす人々が山中に入って営んでいる宿のような気がしていたのだが実際はそうではなく、そもそも山中に暮らす人が、空き部屋を開放して旅人を泊めるようになったものだ。それと、和歌山の味噌は特産品として有名な訳ではないが、各家庭が作って消費するという文化があったそうである。味噌は旅籠の主人すなわちそこに住んでいた人がすぐ横で畑を耕し、味噌を作り、豆腐に添えて提供していたということになる。あの山の中に本当に生活があったのだなぁとつくづく思う。

そんなこんなで旅路を反芻しながら晩酌。出発前に自宅用として仕込んでおいたお屠蘇と、お土産の日本酒を1合。そして冷奴だ。滋養は五臓六腑に染み渡り、旅の余韻がまるで鐘を突いた時の倍音のようにビリビリと体を突き抜けていく。
美味しそうな木綿豆腐と生姜味噌、生の蕪、山行前に作った沢庵で一杯。
この後、鹿肉をすこし焼き、かんずりをつけて頂いて〆。
ここに綴った内容は一般的にはよく知られているエピソードも多かったかも知れないけれど、私はその辺無知なので色々と知らないことが多く、調べていて驚いたことばかりだったので衝動的にひととおり書いてしまった。読んでくださった方はもしかすると「そんなのも知らずに熊野古道行ったのかよ」と驚くかも知れないが、そんな時は次に会った時にでも、話のネタにして弄ってくれたらそれはそれで嬉しい。

2026年もよろしく。

2026/01/03

20251231-20260104_熊野古道越年山行(4日目)

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Day4--2026/1/3 (Sat) 行動時間約9時間半 松畑茶屋跡手前211m付近~登立茶屋跡
流石に大分時間的に前倒しになりすぎてきたのでそこまで早起きする必要もない。天気も安定していて、雪がぱらついても本降りになることは無い。もう大丈夫だろう。連日の朝の支度の所要時間も読めてきたので、ゆっくりめの5:00起床6:00出発。
早朝の清々しい景色!

林道脇に石碑。ここも歩かれていらっしゃるのね~
本宮を越えて中辺路に入ると小雲取・大雲取という山越えがある訳なのだが、小雲取は小という名前が付くだけあって大したことはなくあっさりと終わってしまい、途中いくつか茶屋跡を通りながら一旦小和瀬という地に降りてきた。橋を渡ったところに東屋とトイレがあったのでここで水を少し補充。今までの感じからしてまだまだ頻繁に水場は登場するだろ、と高を括っていたがこの先結構水場がないことが後で分かった。ここが肝心の水補給エリアで、計画にもしっかり書いてあったというのにうっかり忘れていた。まぁなんとかなったので良かったけれども。
誰かが忘れていったペットボトル
続くは大雲取越え。これがでかい。長く続く石段が地味に足にダメージを与えてくる。脚の筋肉痛などはここまで特になかったのだが、アキレス腱の上あたりに軽い腫れと、足首から下に疲労がたまってきているのがわかった。地面が土なら有難いのだが、ここへきて石が続くのは疲れる。気温が低いことで水分補給が疎かになっていて体もだいぶ浮腫んできた。特に足の甲がぷよぷよに膨らんで、まるで赤ちゃんの手足のようになって足指が曲げづらい。
この日の幕営地候補に考えていた円座石(わろうだいし)←絶対読めない
10:30に到着してしまったので勿論ここでは宿泊しない。しかもあんまり適地でもなかったw
これがその円座石。上に何が書いてあるかは素人には全然読めない。
円座石の少し先の東屋に水場というか蛇口のついた水道が2つ(写真左)。
きっと夏場などは水が出ているのだろうけれど、今回は若干涸れていた。長時間蛇口をひねらないでおけば少し水が溜まって出てくるけれど、出切ったらもうまた暫くは溜まるまで出てこないという感じだった。出てくるだけの水をとりあえず汲んでいくことにする。
また少し進むと楠の久保旅籠跡という小さな平場があった。この札の右側あたりにその平場はあり、私はその場所の写真は撮っていなかった。
「約1.5kmの区間に数か所の屋敷跡が見られる。江戸時代には、十数軒の旅籠があり、大変にぎわったという。北に見える小雲取の桜茶屋を指差して、あそこまで宿屋がないからここに泊まるように、と客引きをしたとの話ものこる。
18世紀の参詣者の日記に、旅籠の亭主がいろいろもてなしてくれるが、野菜を植えても猿と鹿に食べられてしまうので、干ワラビ以外には菜や大根の類はない、ということなども記されている。
ここには、大正年代まで旅籠が営まれており、『豆腐あります、風呂わいてます』が宿の宣伝文句であったという。」
ここに書かれた文章はちょっとした小噺のようで私の心を掴んで離さなかった。読んで目に浮かぶ情景、そして大正といえば祖母はもう生まれていた頃である。祖母は東京の人だが、もし奈良・和歌山界隈に住んでいたらこの旅籠に泊まることがあったかも知れないということだ。

長い長い大雲取越えの登り、無理に歩き続けても徒にペースが落ちるだけ、ここらで一泊しようという人々が散り散りに旅籠に吸い込まれてゆく。ここに商いがあった。そして旅籠の主人たちは知恵を絞って客引き合戦を繰り広げていたはずだ。
さてどこで泊まろうかと悩んだ旅人の目に飛び込んでくるのが豆腐と風呂のパワーワードである。人はその文字を見て、美味しい豆腐と熱い湯舟を想い浮かべて抗うことも出来ずにここに吸い込まれていったに違いない(実際はわからないけどw)。当時ぐったり疲れた人々にとって豆腐は、体に染み渡る栄養価の高い食べ物の頂だったということなのか。嗚呼、豆腐なんだなぁ。そう思ったら無性に豆腐が食べたくなってしまった。美味しいお豆腐。下山したらお豆腐をアテにして日本酒が飲みたい。日本人にとって豆腐というのは、ただの食品ではなく文化なのだろうなぁと思った。そして美味しい豆腐を食べて風呂に入って英気を養い、翌日も人々は旅を続け、大雲取へ挑むのだ。そして彼等が踏みしめたのも、私の足の下にあるのも、同じ土だ。脳内でそんな想像をあれこれ膨らませていたらなんだか泣けてきてしまった。世界は横だけではなくて、時代的な意味で縦にも繋がっているのだというような感覚。当たり前と言えば当たり前のこと、ご先祖様と血が繋がっているということはそういうことなんだな。頭でわかっていたことを体が理解したような気がした。
これは札の左側だったと思う
私以外の人がこんな豆腐だの風呂だのでここまで考えるかといえばそんなことはないのだろうけれど、人がそれぞれ違うように、感動ポイントだって人によって違う。人づきあいというのはそういうのを交換し合うからこそ面白いものだ。付き合いのない相手とだってこういうことは共有したいし自分で記録にも残しておいて、後で読み返して楽しみたい。私がブログを書く原動力のうちのひとつでもある。

登って登って越前峠到着。お疲れ様でした。
峠越えを終えて下山してくると幕営適地ふたたび。脇に沢もあるので水にも困らない。
更に進んで地蔵茶屋跡の小屋。小屋というか立派すぎてびっくり。ここでスウェーデン人の2人組とすれ違ったので暫し談笑。これから登るといっていたけれど大丈夫だったのか、一体どこまで行ったのか・・・(このとき13時半過ぎ)。
因みに、彼らは私とすれ違う前にソロの男性とすれ違ったそうで、その人は吉野から大峯奥駈道を歩いてきて既に10日目だったらしい。自衛隊の方だったそうで、信じられないくらい巨大な荷物を担いでいたとのことだった。
トイレは冬季閉鎖中(右側)
左の休憩所は解放中
中もすごい。左奥の板の間で眠りたいw
水道はほぼ水は出ず(夏は出るんだろうか?)ガスコンロもあったが、使い方いまいち分からず。というかこの設備がここにあるのがそもそもすごい。どういうことなんだろうw
本気でここに泊まってもいいような(泊まりたいような)気もして少し考えたが、それでもちょっと時間的に早すぎるので歩みを進めることにした。昼過ぎに行動を終えてのんびりするほどの酒やつまみは持ち合わせていない。

あちこちに立っている札の文言を読み続けながら進む。見てもフーンとしか思わなかったりする内容なこともあったが、たまに引き付けられたりする。
亡くなった人と会えることが多い道らしい。気味の悪い感じというよりは、会いたい人に会えるかもしれないような期待の道みたいな感じ
丁度この左手前に札が立っていた。
そうこう言っている内にこの日も次の神社に近付いてきてしまった。頑張って夕方の那智大社に飛び込むか、それとも時間調整して明朝にするか(こんなことばかり言ってるw)。
しかし前倒しで推移しているのは相変わらずであり、ここで頑張ってペースを上げる必要もないし、もっとじっくり楽しみたい。それに、もし那智大社界隈の営業が終わった時間帯に到着してしまった場合、更に進んでテントを張って翌日戻るのか?そんなことを考えたら、那智より手前である程度時間調整して明朝ゆっくり出発する方がいいような気がしてきた。

道の脇の高台に東屋があり、そこは舟見茶屋跡だった。海が見えた。朝ここから景色を見たらいいだろうなぁとも思ったが朝日の見える方向ではないし、そもそも風が強くて寒そう。夏はいいかもしれないが今日の幕営には向いていない。
とうとうここまで来た!
かつての茶屋跡の基礎の上に東屋を建てたらしい
舟見茶屋から少し標高を下げつつ、しかしどのあたりから下が観光地化して街っぽくなりだすのかがよくわからないので探り探り進む。降り切ったところにある公園ももしかしたら泊まれるのでは?と思ったが、普通の公園だったら困るので、登立茶屋跡というところで手を打つことにした。