2016/10/10

20161009-10_第24回日本山岳耐久レース・長谷川恒男CUP(後編)

前編はこちら

「私は去年ちょっと実力以上に速すぎました、今年調子が悪いのは完全に練習不足だと思います、おそらく調子に乗っていたんだと思います」第2CPの月夜見第二駐車場で給水を終えた直後、チームRun or DieのKMDに向かってこんなことを言ったと思う。認めたくはなかったけど認めざるを得なかった練習不足という理由。そう、きっと昨年は幻を見ていたんだろう。きちんと積み重ねたものがなければ、毎年毎年タイムを更新することなんてできないんだ。勿論、同じレースに繰り返し出ることでコースに慣れて速くなっていくことはあるだろうけれど、ある程度から先は、きちんとトレーニングを積み重ねなければ前の年と同じタイムでゴールすることでさえも難しくなっていく筈だ。きっと私の去年と今年の間に、その「ある程度」というポイントがあったのだろうなとぼんやり思った。

水と食料を補給して、仲間の声に励まされて後にした月夜見。体に必要なものが入ってきたからなのか、仲間に会えて精神的に救われたからなのか、自分のダメだった部分をきちんと認めて受け入れてわざわざ口に出して人に伝えて形にしたことで、情けないながらも楽になれたからなのか、はたまたその全てがあったからなのか、理由はわからない。ただ気付いた時には、女性ランナーの姿を見つけて咄嗟に「抜いてやる」と思えるようになっていた。

ああ、これ、この意識は自分だ。自分が戻ってきた。確かに私は今年練習不足だったかもしれないけど、そうでもなかった。そうでもなかったんだ!別に練習不足を誰か他人に咎められた訳でもなかったけれど、走れる自分が戻ってきたことで物凄く安心した。誰かに向かって、ほらね大丈夫でしょう?とでも言いたいくらいだった。さあ、こうなったらいけるところまでいこう。さっきまでは14時間を切るのも厳しいかと思っていたけれど、この自分が戻ってきた時点で、もう13時間台は手堅い気がした。

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そのとき私の周りには、脚が売り切れになり始めた人達や、元々のゴールタイムが14時間前後だろうと思われる人達が沢山走っていた。CP1からCP2までの間、私はその人達に抜かれ続けてきたけれど、今は違う。全員抜き返せる。すぐにどこかのパックに追い着くと、そのパックごとさっさと抜き去りたいのに、しばらく続くシングルトラックのせいでなかなか前に出られない。いちいちこうして前が詰まって走れずもどかしい。もっといける、でも周りとペースが合わない。今まで、どうしてこの人この期に及んでこんなに脚が残ってるんだろう??という人が自分の周りにいて不思議に思ったりすることがあったけれど、きっとこういうことだったんだろうなと妙に納得してしまった。どこかでトラブルがあったり力が出せない理由があって、偶々順位が極端に落ちてしまった人が、無駄に温存してしまった脚を持て余して後半でブチかましていたのだろう。そして今回は完全に自分がそちら側の人だった。

御前山の長い登りに差し掛かるも、自分が元気すぎて案の定あっという間に山頂に辿り着いてしまう。御前山からのガレた下りをこなし、大ダワではアキちゃんがスタート前にわけてくれたういろうを頬張って、その後間髪入れず一気にTop Speedを飲み込んだ。大岳山からは走れる区間が多くて、昨年はかなりずっと走っていた記憶だったのだけれど、今年は坂道を上り続けるような練習をあまりしていなかったので、ところどころ休みながら(自分の感覚では昨年よりも走れなかった印象で)進む。但し、結果的には去年より区間タイムは速かったので、人の感覚なんて曖昧なものだなと思い知らされる。

綾広の滝の水場で喉を潤した後ぐらいだったか、見たことのある真っ赤なウェアの男性が前を走るのが見えた。前半三頭山で私を抜き去った友人に、再び追いついたのだった。彼もとても速いランナーなので、追いつけたことは本当に嬉しかった。そこから少し喋りながら並走していたが、暫くするとゆるい上り坂で置いていかれてしまった。私はというと、今回新たに導入したGentosのヘッドライト(300lm)の明かりが次第に暗くなってきたのを感じて、CP3で電池の交換をすることにした。最後の金毘羅尾根はヘッドライトの明るさ不足など気にせず全力で進みたいと思ったからだ。(おそらくここで電池の交換をしていなければもう1人女性ランナーを抜くことができて、来年の招待選手枠に入れただろうと思うのだが、後の祭りだ。)

脚はどこも痛くなく、疲労もなく、空腹をしのぐだけの食料も残っていた。荷物も重くなく、水は豊富にあり、好きなだけ飲めた。日ノ出山では相変わらず素晴らしい夜景が広がっていて、私は確かここで浅間峠からずっと出しっ放しにしていたストックを1本畳んだのだったと思う。過去のハセツネのこの区間で出会った人達との会話のことを思い出したりなんかしながら走っていた。あの時は14時間半以上かかってゴールして、その後ぜんぜん物が食べられない程ぐったりしていたんだっけなぁ、と。

ハセツネは「⚪︎km地点」というような表記が少ない気がするのだが、最後になって残り5kmの看板が現れた。おお、もうあと5kmか。その時点で何時だったかは覚えていないが、残り2kmの看板が出てきた時点ではサブ13まであと14分だった。まだ微妙に山の中にいるし、ひょっとしたら間に合わないかもしれないけれど、ここまできたら死ぬ気で12時間台に滑りこんでやろう、そう思って最後は本当に気が狂ったように猛スピードで走った。今年はログをとらなかったので、最後どれくらいのスピードだったかはわからないけれど、瞬間的にはキロ3分半とかは出ていたかもしれない。

結果は12時間56分14秒、女子21位。浅間峠から月夜見までに抜かれた11人のうち、9人は抜き返したようだった。10人抜かれて10人抜いたかなと思っていたけれど、、、だいたい記憶は合っていたようだ。応援部隊が想像していたよりも早くゴールしてしまったようで、ゴールシーンは誰にも見てもらえなかったwそして以下は昨年のタイムとの比較。

Year
CP1
CP2
CP3
Goal
2015 3:30:403:40:487:11:283:22:3210:34:001:48:0212:22:02
2016 3:49:314:15:048:04:353:14:3311:19:081:37:0612:56:14

比較してわかる通り、CP1までは少し抑えようとした結果周りのペースに飲まれて遅くなりすぎ。その後具合悪くなり失速して大幅にタイムを落とす(昨年より35分近くかかっている)。CP2で復活を遂げてそこから先は昨年よりも速いペースでゴールまで突っ走れたという感じ。とてもわかりやすい・・・
昨年三頭山付近でトレインを組んだナガイくんは月夜見でDNFとなったとのことで、すでにゴール地点にいた。全然ダメだった、辛かった、と言っていたけれど、その気持ちはとてもとてもよくわかった。去年12時間台でゴールしていて、スタート前調子が悪そうでもなかった彼が、そこまで辛いと感じてリタイヤしたということは、私と同じように辛い区間を過ごしたであろうということは容易に想像ができた。

あとになって改めて、三頭山の上りのあのつらさはなんだったのだろうと考えてみると、矢張り脱水が一番の原因だったのではないかなと思う。普段食べているのと同じだけ食べていて、これまでにハンガーノックになったことがなかったので、今回だけハンガーノックになるとは考えにくかった。仮にハンガーノックだったとすれば、レース前に食べたもののカロリーが不足していて、体内の蓄えがいつもより少なかったかもしれないということぐらいだ。しかしハンガーノックも脱水も、いずれも私は経験したことがなかったから、自分の体に何が起きているのかわからなかったし、結局のところ何が真の理由なのかについての答えは闇の中だ。ふらふらして貧血のようになったし、走ろう・登ろう・抜こう・進もうといった意思が消えて無気力になった瞬間があったのが印象的だった。
私は山を始めて半年くらいの頃に友人と2名で遭難未遂をしたのだけれど、あまり水のない状態でビバークし、夜が明けて暫く進んだあとルートファインディング役を私が交代した。あとになって友人に話を聞くと、朦朧として先に進む気力が失せていたしよくわからなくなってきていたと言う。今回の自分の状況とあまりにも似ているし、あれはきっと脱水だったのだろう。もちろんその時も食料は不足していたし、ハンガーノックもあったかもしれない。でももしかしたらハンガーノックよりも脱水の方が辛いのかもしれないという気もする。あと、これは想像でしかないのだけれど、脱水状態を抜け出すには当然水を飲むことが必要で、しかし飲んでしまいさえすれば案外あっという間に回復するような気がする。

一度折れた心でも、どうにか戻すことはできる。但し、そこには折れた心を戻そうとする意思や気力が必要で、それさえも失われてしまえばもう折れたまま戻ることはない。それから、折れた心のまま進み続けなければいけない状況がどれほどしんどいか、実際に経験してみて初めて知った。2013年、とてもしんどくて最後は全然走れずに歩いて終わったハセツネ。2014年、応援側から見てみていろんな闘い方があるのだと知ったハセツネ。2015年、思い通りに走れた夢のようなハセツネ。そして2016年、これまで見たことも経験したこともないような自分に出会ってそれにどうにか立ち向かい、対処し、まとめたハセツネ。出会ってから4度目、出場して3度目のハセツネとなったが、二度として同じハセツネは無かった。まったく同じコースを走らせているのに、毎回色々な姿で魅了するこのレースに、10回・20回と出場して完走している人がいるというのもなんだか分かるような気がした。やっぱりこのレース、楽しいんだよ。
コース上では誰とも会わなかったけれど、いつも心は繋がっている。
今回チームフラッグを持ってこなかったのだが、山と道ミニマリストパッドを掲げたところに
後日、ひらどんがロゴをぶち込んでフラッグ風にwナイスアイディア!
私にういろうをくれたアキちゃんは、初のハセツネをサブ16で完走した。その後ぐったりして横になっている姿を見て、まるで数年前に初ハセツネを走った自分を見ているかのようだった。ただ走っているだけなのに、気持ちよくなったり悪くなったり、興奮したり落ち込んだり、実に不思議なものだなぁ。未だ見ぬ感覚を求めて、きっと私はこれからもこのレースに出続けるだろう。

夜通し応援してくれたチームの皆、そして一緒に走ってくれた仲間、ありがとう!

20161009-10_第24回日本山岳耐久レース・長谷川恒男CUP(前編)

どうして走れないんだろう。どうしてだ。
なんで?なんなの?どうしてなの?

みんながどんどん抜いてゆく。私を置いて、黙々と山を登ってゆく。

私は少し進んでは立ち止まり、またちょっと進んでは脇へよけて休んだ。辺りを覆う濃い霧の中に消えてしまいたいくらい恥ずかしくて、こんな自分の姿は誰にも見られたくなかった。情けなくて仕方がなくて、脇へよける度にヘッデンを消した。乱れた息を整える振りをしながらぽろぽろと涙をこぼし、どさくさ紛れに鼻をすすった。泣いているのを隣で休んでいる人に気付かれそうになるとそっと逃げた。

まるで何らかの辱めを受けているようだった。屈辱的だった。逃げ出したかった。
けれど逃げ出さなかった。辱めだと思っていたものは全然辱めなんかではなかった。

ハセツネというレースが両腕を広げて、大きな愛で私を受け止めてくれたんだと思う。甘やかさず、叱らず、自分で考えなさいと聡いやり方で私を育ててくれた。終わってみて、より一層このレースに対する想いが深まっているのが、何よりの証拠だ。

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9月下旬、私は初めての100マイルレースとなるUTMFにエントリーしていた。40時間程かけて169kmを走るはずだったこのレースは、悪天候のため44kmに短縮となってしまった(エントリーフィー36000円だったのに!w)。翌日、緊急措置として走らせて貰ったSTYも72km→17kmに短縮となり、使わなくなってしまった大量のエネルギージェルの在庫が家に残された。最早ハセツネ用として買い足すものもないし、もう三度目の参戦だからコースもわかっている。大して事前準備に時間はかからないだろうと高を括り、直前までほとんど準備をしていなかった今年のハセツネ。とはいえ、使おうと思っていたザックに自分の持っているストックを付けようとすると仕舞い寸が長すぎて付けられないとか、そもそもストックをつける機構が無いとか、やれアレが見つからないとか、やれヘッデンの電池はエネループじゃなくて乾電池の方が良さそうだけど乾電池の在庫切らしているとかでレース前日はそれなりにバタつく。しかもパッキングが出来てからもなんやかんや時間を食ってしまった。土曜日まるまるお休みだったにもかかわらず、結局睡眠時間は3時間くらいという・・・
過去2回はUltrAspireのomegaを使っていたけれど、今回はUltimate DirectionのAK vestに。
シューズは3回ともinov8のTrailroc255、ストックはこのために調達したニューアイテム、
ヘリテイジのULトレイルポール。
武蔵五日市駅7:34着の電車で仲間達数名と一緒に現地入り。そして外は雨。例年通り、駅前のコンビニで買い物をして会場入りすると、体育館の奥の方に敷物を広げて人数分弱程度の場所を確保する。受付を済ませ、ゼッケンやICタグ、ハイドレーションの準備などを一通り済ませてから朝食をとり、一旦横になって一時間ほど仮眠。ガヤガヤしているのでそんなに熟睡できるものでもないけれど、体力の無駄使いを控えつつスタート時刻が来るのを待つ。雨は一度本降りとなり、体育館には激しい雨音が鳴り響いていたが、予報通り昼には止み、曇り空の下でのスタートとなった。
昨年のタイムは12時間22分。昨年の時点でもう少しいけると思ったこともあり、今年の目標タイムは11時間半としていた。ちょっと無理かもしれないけどもしかしたら手が届くかもしれない、そして手が届いたらいいな、という少し欲張りな目標。スタート直前に応援部隊の某氏に目標タイムを聞かれ、躊躇いがちに答えてはみたものの、嗚呼言っちゃった、どうしよう、でも口にしたから叶うかな?という感じでスタートの列に並ぶ。レースってのは何回出てもやっぱり緊張するものだ。
スタート時は毎度テンション高めw
トレイルに入ってからの渋滞をできる限り回避するため、スタート地点から広徳寺までの舗装路は目一杯ダッシュするのが掟。去年はどうにかトレイルに入るまで足を休めず走り切ったのだが、今年はあとちょっとのところで力尽きた。去年、CP1の浅間峠までは兎に角死ぬ気でいけと言われて死ぬ気で行ったら3時間半で到着してしまったのだが、これは自分の目標タイムから計算するとちょっと早すぎていた。今年は序盤にそこまで頑張らなくていいだろうし、その方が後半もっといいパフォーマンスが出せるかもしれないなという思いがあった。とはいうものの、蓋を開けてみると矢張り目一杯ダッシュした時に自分の周りを固めるメンバーと、ダッシュしなかった場合のメンバーとでは全体的なペースがまるで違って、想像以上に列が詰まりヤキモキさせられる。自ら「序盤、去年よりも少しだけ温存しよう」と決めていったのに、想像以上にのんびりになってしまったことで心が乱された。変電所を過ぎ舗装路が終わって、今熊神社の登りを進んでいると、すぐ後ろでハァハァと息をあげる女性がいて、振り返ると、あらゆるレースで入賞しているベテラントレイルランナーの野間陽子さんだった。私は息が上がるのがすごく早いのだが、こんなに強い人でもこんなに息が上がるんだなということに何故か少し安心感を抱いた。当然ながらあっという間に抜かれ、抜かれたと思った直後に彼女はするすると10人くらいごぼう抜きにしていき、一瞬で見えなくなってしまった。

1:05くらいで入山峠に到着。去年よりは少し遅いけれど許容範囲。流れに合わせつつ、抜けるところは抜きつつでその先もまろやかに進んで行く。明らかに去年より遅いペースなのに汗が止まらない。物凄く暑いというわけではないのだが、午前中降っていた雨のせいか湿度は異常なまでに高いのがわかる。暑いのだろうけれど、あまり暑さを主張してこないとでも言うべきか。これがジワジワと体力を奪っているということにこの時は気付ける筈もなかったのだが。

ただただ喉を潤し続けておきたいという感じだったので、一度に飲むのはハイドレーションの管の部分だけと決めてチビチビ飲む。管の中の水は外気に晒されて冷たくなっているので、ぬるいところが出てきたら飲むのを止める。私が持った水分は、麦茶が1.3Lと、マツモトキヨシオリジナルのゼリードリンク(ウィダーインみたいな感じ)をボトルに詰め替えたもの0.5L強の合計1.8L。去年も同じだけ持ったのだが、月夜見CP到着時に0.3Lほど余っていたと自分でブログに書いていたので、時期の違いや気温差などを考慮しても同じだけ持てば足りなくなることはないだろうと思った。不安だからといって多めに持つことは簡単だが、持ちすぎても体力を削られるしタイムに響く。

醍醐丸を過ぎた頃だったかその手前だったか、荷物に押されてパンパンになったハイドレーションから伝わる反発がないことにふと違和感を覚えた。意識を背中に移すと、確かにザックの背面はしっとりと体になじんでいるのが解る。おそるおそる腰のあたりからザックの背面に手を入れて触ると、トロンとして張りがない。この圧の無さは・・・信じたくはない、けれどひょっとしたらひょっとするのか。いやどうなんだ?気のせいか?
3時間49分で浅間峠に到着。
仲間内で最も早く到着したタケさんは既に浅間峠を出発していた。
私の後ろもだいぶ離れていたので、誰とも会えず。
本当は3時間40-45分で到着したかった浅間峠、実際の所要時間は3時間49分だった。こんな僅かな違いでも、積み重なれば大きな違いになってくるということは自分が一番よくわかっているので地味に焦る。応援に来てくれた仲間に一言かけてまずはトイレ。続けてジェルの入れ替え、ポールやヘッデンの準備とタスクをこなしてゆく。そして一番確認しなければならないこと、でも一番知りたくないことを確認する。ハイドレーションを目視すると明らかにもう半分以上の麦茶がなくなっているのが判った。ボトルに入れたゼリードリンクももう残り200mlを切っている。どんなに多く見積もっても両方合わせた水分量は800ml、サブ12のペースで駒を進められたとしても補給ポイントまであと3時間半はかかる計算だ。その間、レース最高地点である三頭山(P1531)もある。もうじき日が暮れて涼しくなり、水分摂取は少なくなると判ってはいても、好きに水が飲めるという状況でないのは明らかだった。10分くらいの休憩ののちに浅間峠を後にしたが、気にしなければならないことがひとつ増えてしまったということそれ自体が私に大きなダメージを与えた。ここからは頭脳戦になるのかもしれないと思った。

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西原峠までの細かいアップダウンではストックを使って脚を温存しながら進む。毎時00分にジェルをとり、30分にアミノバイタルを飲むようにしていたのだが、18時半にアミノバイタルを飲んで麦茶で流し込もうとした時が最後の麦茶だった。残された水分は100ml程度のゼリードリンクだけとなった。手元のタイム表を見ると、サブ12ペースで浅間峠〜西原峠は1時間半程とあるが、麦茶がなくなった時はまだ西原峠に到達していなかった気がする。おかしいな、いつまで経っても三頭山の登りが現れない。西原峠で固形物を補給しようとしていたので早く着いて食べたいなぁと思っていたが、なかなか着かないので食べられない。痺れを切らしてフライング気味にグミを頬張り、もぐもぐしながら進む。ようやく現れた西原峠で残っていたグミを更に口に放り込むと三頭山にとりついた。しかしどうだろう、別にそこまで暑くもない、具合が悪いわけでもない、なのにどういうわけか進めないし進まない。

調子おかしいかな?
おかしいのかな?
いや、おかしいな。
おかしいよな・・・

私は結構本番に強くて、普段出せないような力が本番で出せる傾向があるということを自覚していた。信じられないほど頑張れたりすることも結構多くて、無理かなと思っていても大抵出来てしまった。でも今はまるでその逆で、できる筈のことができない。去年より走力が上がっているかどうかはわからないけれど、著しく下がっているということもない筈だった。なのに、登れない。浅間峠から西原峠間の細かなアップダウンでも感じていたのだが、下りはそれなりに走れるのに登りが辛いのだ。三頭山の登りが現れて、ダウンがなくなりアップのみになった途端、本当に全然進めなくなってしまった。

ほら、8月は山には登っていたけれど、ほとんど走らなかったじゃん。
8月下旬〜9月の頭にかけて行った夏休みの大雪山縦走は、結局台風にやられて3日も避難小屋に停滞して運動できなかったじゃん。
UTMFがハセツネ直前にあって、脚がいい具合に熟成すると思っていたけれど、結局距離短縮になってしまったからあんまり走っていないしね。
去年より体重も増えてるし体脂肪率も上がっている。
ハムストリングも相変わらず違和感あるままでしょう。直前に追い込みすぎなんだよ。限度ってものがあるだろう。
サブ11.5が目標ですなんて言ってたけど、去年の方が走り込んでいたし、大体からしてサブ11.5を達成する為に具体的になにかした訳でもないのだから、速くなるなんてことはあり得ないんだよ。
大体、浅間峠までのタイムが去年より20分も遅いのに、去年よりも50分も早くゴールしようなんてもう無謀なわけよ。

とにかくツライ。ぼんやりした頭が、なんでこんなにツライんだろうかとその理由に思いを巡らせる。もう一人の私が、ほらお前今年こんなだったじゃんか、ツライに決まっているだろう、調子乗ってたんだよ、ハセツネ甘く見るなよと罵る。怒られて悲しくなってくる。脚はますます動かず、登れないし進めない。息が上がってすぐ止まる。ナニクソと堪えながら顔を歪めてゴリゴリ登るいつもの私はどこかへ消えて居なくなってしまった。ネガティブをお団子にして握りしめたような醜くて情けない大きなカタマリは、幾度となく立ち止まり、腰を下ろした。これまで走ってきたハセツネで、CPや山頂などの場所以外で途中で腰を下ろしたのは初めてだった。体が動かないのは明らかだったしそのこと自体は受け入れなければならないと思ったけれど、何よりも衝撃的で受け入れ難かったのは、兎に角「負けないぞ」「登るぞ」「もっと頑張ろう」というような私の中のアグレッシブな思いがきれいさっぱり消えてしまったことだった。気持ちがなくなるってこんなに辛いものなのか。何のトラブルもないのに気持ちが折れてリタイヤする人の気持ちなんてほとんど解らなかったのだけれど、実際に自分がこうなってみてようやく少しわかった気がした。

こんな筈じゃない。けど、私なんか結局こんな程度なのかも知れない。段々頭が働かなくなってきた。私は浅間峠を女子19位で通過していたようだが、ここからじゃんじゃん抜かれて月夜見では30位まで順位を落とした。参加人数の少ない女子の、しかもボリュームゾーンより速い12時間前後のタイムの人達に10人抜かれるというのは相当のことだ。このレースに限らず、ほんの数時間の間にこんなに一気に抜かれたことはおそらくなかったと思う。もう順位も、タイムも、何も狙うものは無くなっただろう。悔しいけれど、完走だけはしよう、と気持ちを切り替えてじりじりと進み、やっとのことで三頭山の山頂に着いた。月夜見に20時に着くことができればサブ12は手堅いと思っていたけれど、山頂の時点で既に20時近かった気がする(たぶん)。

去年、一緒に三頭山の登りからトレインを組んで暫く一緒だったナガイくんは今どこを走っているだろう。そういえばここでナガイくんは足を捻ったんだっけ、と思い出して慎重に足を置く。登りは完全にダメになっていたけれど、下りは割と普通に走れたのでマイペースに進んでいった。あんまり飛ばして喉が渇いてしまっても水もないので控えめに行くことにした。

CP2の月夜見に近付き、一旦道路に出されてから再びトレイルに戻り、また道路に出てくるとようやくCPの大きな明かりが見えてきた。水を求め、そして会える筈の仲間を求めて必死に走る。去年ここを走った時のあの余裕は一体どこへいってしまったのか。こんな時間になってここに到着するなんて、と思ったら本当に情けなく、恥ずかしくて、もうサブ11.5なんて言うんじゃなかったなー格好悪すぎるなーという気持ちと、もっと根源的な安堵感とが入り混じってぐちゃぐちゃになった。応援に来ていたJackieboyslimの顔を見て、全然走れないんだよ、と口にした途端、堰を切ったように涙が出てきた。つらかった。ひとまずハイドレーションに500mlずつの水とポカリスウェット、ボトルに水500mlの水を注いで貰い、腰を下ろして休憩。ボトルの水を思わずその場で一気飲みすると、いつも通り補給食の入れ替え作業に取り掛かった。
黙々と補給
コバちゃんと私の、補給についての一問一答が暫く続いた。

コバ「ちゃんと食べてるのか?」
ヤスヨ「食べてる」
コ「何食べてるの?」
ヤ「ジェルをコンスタントにいつも通り食べてる」
コ「ペースは?」
ヤ「1時間に1本、メダリストとかを(1本105kcal程度)」
コ「少なすぎだよ!ハンガーノックだろ、まとめてジェル何本か食え」
ヤ「いつもと同じ量だし、ハンガーノックになったこともないし、ジェル以外にグミとかも食べてる」
コ「とにかく食え」
ヤ「今そんなに食べたら後半食べるものなくなっちゃう」
コ「いいから食え!(怒)」

こちらは精神的にだいぶやられているので、怒られて若干泣きそうだった(※コバちゃんは年下です)。とりあえず唯一カフェインの入ったレモン味のマグオンを飲む。初めて飲むのでどんな味だろうとちょっと楽しみにしていたのだが、夢中で摂取したので味の記憶が全然ない。私の固形物袋を眺め、羊羹食え羊羹!と指示を出すコバちゃん。言われるがままにチョコ味のえいようかんを頬張る私(これも初めて食べた。結構美味しかったけれど羊羹ぽい弾力感はなかったなぁ)。さらにグミを半袋くらい食べてからトイレへ行くと、いよいよ月夜見を立ち去る瞬間が近付いてきたのを感じる。ここ数時間眠り呆けていた、私の体の中の私の魂が、この時やっとほんの少しだけ目を醒ましてくれたのかもしれない、と今になって思う。仲間が起こしてくれたんだ。少しでもボタンを掛け違えていたら、きっとこのブログはここで終わって、後編は無かっただろう。

幸いにして、後編へ続く

2016/09/03

20160827-0903_大雪山・台風停滞explorer(後編)

前編はこちら

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2016/08/31 (Wed) 雨のちガス・強風
停滞3日目。
朝起きてもまだまだ外はガスだったが、体ひとつで外へ出ても平気そうな風になったようだったので12時間ぶりぐらいにトイレに出てみると、トイレの木枠は釘が抜けて菱形に歪み、2つあるトイレのうちの1つは完全にドアが開かなくなっていた。避難小屋本体が無事で本当に良かった・・と胸をなでおろす。

それほど酷い風雨でもなく、ガスの具合も28日と同じような感じだったので、出発しても良いかなとも思えたが、そもそも私はこの後どこへ向かうべきなのか。そもそも降りようとしていた吹上温泉の道路は一度通行止になって、通行止解除になった経緯があるので、また今回の台風の影響で通行止になっている可能性は高いだろう。ラジオを聴いていると、吹上温泉から乗るバスの行き先である富良野エリアは川が氾濫して洪水になっているとか避難勧告が出ているとかそんな話も聞こえてくる。仮に道路が通行止めになっていなかったとしても、富良野からの交通が麻痺していたらどこにも動けなくなる。しかし南(南西)に向かえばもうここしか降り口はないのだ。これはもう、北に戻るしかないのではないだろうか。一旦通った道ならば、少しくらいガスでも、トレイルの状態が悪くても、きっと自分の力でどうにかできる筈だ。わかった、私は元のトレイルに戻ろう。大嫌いなピストンになるけれど、これも英断だ。勇気を持って引き返そう。
昼過ぎに僅かに見えた青空とヒサゴ沼全容、そして左手前は北大生が残していったテント(倒壊)。
中の銀マットが飛び出して、テントのファスナーが開いてしまっていたので、とりあえずマットを仕舞い
ファスナーを閉じる。ごめん、建て直せなかった・・・
小屋の近くにはトムラウシのピークがあった。昼頃になると青空もでてきたので、午後はトムラウシをピストンでもしようかと思って支度をしてみたものの、やはりあっという間にガスが出てきて視界は閉ざされる。かと思うとまた青空が出てくる、霧が出る、そんなことを繰り返すうちに霧雨になった。ピストンといえども往復でCT5時間はあるピークだ、これは行かないほうがいいな。行って行けないこともないかもしれないけれど、山頂から何も見えないのでは仕方がない、そう思って結局この日は避難小屋に引きこもることにした。引きこもりを決めてからまた本を読んでいると、ざーっと大雨がきた。やはり行かなくて正解だった。まぁ万が一明日の早朝に天気が良ければ改めて行けばいいことだ。
歪んだトイレ。右側はこれ以上ドアが開かないし閉じない。
右下のところの釘?が抜けてしまっている。
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2016/09/01 (Thu) ガスのち晴れ・夜間に雨
6:30 ヒサゴ沼避難小屋
↓ - 0:37
7:07 ヒサゴ沼分岐
↓ - 0:50
7:57 五色岳
↓ - 0:29
8:26 忠別岳避難小屋分岐
↓ - 0:56 (下界に連絡したりなどしつつ)
9:30 忠別岳
↓ - 0:50 (下界に連絡したりなどしつつ)
10:20 忠別沼
↓ - 3:00 (下界に連絡したりなどしつつ)
13:20 白雲岳避難小屋
↓ - 1:36(避難小屋での20分休憩含む)
14:56 北海岳
↓ - 1:04 (渡渉時の洗髪時間含む)
16:00 黒岳石室
とうとうお別れのとき。
朝起きてみると今日もガス。トムラウシは次回の宿題に残しておくべき課題なのだろうと思って登頂は潔く諦めて元来た道を引き返すことにする。二回も歩くのだから、少しくらい景色見せてくれてもいいじゃない、と思うものの、結局往路と同じようなガスの中を歩くこととなった。忠別岳を過ぎて沼に差し掛かる頃になってようやく霧が晴れて景色が見え始めたが、結局そこは往路も見た景色だった。行きに見えなかった景色は、帰りも見えないままだ。運が悪いというべきか、否しかしそうではなくて南側がとにかく天気が悪いということなのだろう。今日だってきっと、南下していたらトレイルはずっと雲の中だった筈だ。
往復ともガスの中。
忠別岳を過ぎると次第に青空が。 
数日前は赤くなっていなかった実が、この台風を経て綺麗な赤に。
ところどころ、トレイルが沢に。。。
忠別沼より北はとても良い天気で、気持ち良く歩くことができた。ガスっていたり雨が降っていても楽しめるトレイルというのは確かにあるけれど、ここはそういうところではない気がした。すっきりと晴れて不安なく気持ち良く歩けてこそ、楽しめるトレイルなのだ。
アルコールを飲みきってしまっていたので、商品販売のない白雲岳はスルーして初日お世話になった黒岳石室に再びチェックイン。北海岳をすぎて黒岳石室に向かう途中の沢で洗髪を試みる。まぁ髪の毛が抜けること抜けることwお天気も良いし暖かいので、ひとしきり洗った後は手拭いで髪を拭いたらそのまま自然乾燥。うひゃー、頭皮がすっきりして気持ちが良い!小屋に着いてテントを張ってまずはビールとご飯、からの日本酒でほろ酔いに。ソロのおじいちゃん2人とダベったりなどしつつ就寝。本格的に眠る前にテント内でうとうとしていたら、枕元で物音がした。何人もテントに躓いていくなぁと思ったら、キツネがテントを齧っている音だった。。。フライの内側に食べ物を置くと齧られたり持って行かれたりすると聞いていたのでテントの中にすべて置いてあったのだが、テントの端に置いてあったゴミのにおいにつられてやってきたらしかった。

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2016/09/02 (Fri) 晴れのちガス・夕方昼以降ゲリラ豪雨あり
6:30 黒岳石室

↓ - 1:07
7:37 北鎮岳分岐
↓ - 0:12
7:49 北鎮岳山頂
↓ - 0:15 (山頂での記念撮影等の時間含むため登りより長い)
8:04 北鎮岳分岐
↓ - 0:16
8:20 中岳
↓ - 0:45 (バスの予約電話入れるなどしつつ)
9:05 中岳温泉
↓ - 2:35 (入浴に40-50分&ガールとお喋りしながらのんびりハイク)
11:40 ロープウェイ山頂姿見駅

完全にピストンするのもつまらないので、旭岳に登らずに中岳温泉を経由するアップダウンの少ないコースを通ってみることにして、朝6時半過ぎに黒岳石室を出発した。どうなっているのかさっぱりわからないけれど、地図にある中岳温泉というのが気になって仕方ないのでここを目指すことに。地図には「露天の石で囲ってある湯舟のみ、土砂を排出するスコップは設置されている」とある。これ如何に。
黒岳石室から北海岳に向かわず北鎮岳方面に向かう。
白いの全部チングルマ!圧巻。 
ちょろっと登ってピークへ。こちら方面に進むと温泉に入れないので今回はピークハントだけ。
中岳に向かう稜線
中岳に向かう稜線の途中で携帯電話の電波が通じた。下山予定も立ったので、その日のうちに帯広に入れるよう電話でバスの予約をする。旭川駅前から帯広行のバスは運行しており空きもあるとのことだったのでその場で1席確保してもらった(4000円弱だったかな)。と同時に、しばらく連絡を入れられていなかった先輩のお母様にもメールを入れて今日の動きを伝えることに。結局夜21:00頃に帯広に到着する私を、わざわざ車で迎えに来てくださるという。ありがたいことだ。

中岳を過ぎてゆるやかに下っていくと、左手前方に向かってトレイルが九十九折になりはじめた。急に高度を落とした先には、目指した温泉の姿が!うわー!なんだこれ
このガレの先(写真でいうところの右下あたり)に温泉がある
着いた!
このロケーション、湯温、深さ、人の少なさ、、、これは入るでしょう。全裸でいくでしょう。
この眺め!
最高の泉質!湯温も申し分なし。うっとりまったりしているとソロの男性が通過していった、、、とりあえず手拭いを前に当てつつ御挨拶をしてしのぐ。(後でその人に追いついて見てみたら、二日目に白雲岳ピストンのときに出くわした環境庁の調査の方だった。一旦下山してからまた調査のために入山したらしい。長靴を履いていたのですぐに分かった。)

その男性が通過して暫くしてから温泉を上がって着替えて、のんびり珈琲を飲んでいたら今度はソロの女の子がやってきた。このエリアでULザックを背負っていたのは彼女しか居なかったのですぐに二日目にすれ違ったあの子だと分かった。すれ違ったのは北海岳から白雲岳に向かうトレイルの途中だったのだが、その時そこに落ちていた手拭いを拾って道標の跡みたいな棒切れに結びつけておいた、その手拭いの持ち主でもあった。まさかこんなところで再会するとは。彼女は転職活動中とのことで、お休みを使って一ヶ月以上北海道をぐるぐるしているのだということだった。彼女もまた一旦下山してまた登っていたのだったかな(うろ覚え)。
一応立派な看板?があるけれど、その辺に転がっていたw
珈琲を振舞ったりして、そこから彼女と下山し旭川までご一緒することに。どうやらトレランもやっているらしい。どうりで一緒に歩けるわけだ。(大抵私は人と歩くと速すぎると言われて一緒に歩けないことが多い)

とはいえ、何気に彼女の普段のペースよりはずっと速かったらしい。一緒に歩いていて女の人でこんな速い人は会ったことがないと言われた。。。それはそうと、姿見ノ池が近づいてきたら次第に雲行きが怪しくなり、ガスが出て、ロープウェイ姿見駅に到着した瞬間に突然豪雨に。間一髪!自分のペースで歩いていたらこの雨にやられてましたありがとうございますっ!と感謝されてしまった。まぁ雨を避けられたのは偶然だったけれど、とりあえず良かった良かった。
ロープウェイはガスガスw
幼稚園児達が遠足で上がってきていたのだけれど、何も見え無さすぎてなんか可哀想・・・
ロープウェイを降りたら雨は止んでいたので良かった。一緒にまずはご飯を食べて一旦解散、私は近くの温泉へ入ってからバスで再度彼女と合流し旭川へ。そしてバスに乗っている間に再び豪雨・・・
よく運転できるなぁ、、、と感心するくらい視界が悪くなって物凄かった。
旭川駅で彼女と別れ、私はビールなどを買い込んで帯広行のバスに乗車。長距離バスに乗る頃には雨もすっかり止んでいた。通る予定の道路が崩落したとかで、高速から普通道へ、普通道から高速へとルートがちょいちょい変わってはいたものの、ほぼ予定通り帯広に着いた。

帯広でザックを背負って立っていたら、先輩のお母様と、お姉様とその息子さんに発見された。お母様は一人暮らしをされているということだったので、途中お寿司やさんでお寿司をご馳走になってからそのままお母様のご自宅に泊めていただくことに。

一週間ずっと山に篭っていて、停滞こそ長かったもののそれなりに疲れていたはずだけれど、話を始めたら止まらなくなってしまって、結局眠ったのは朝4時半くらいだった。昔の写真とか、本人が持っていた本やCDとか色々見せて貰った。自害の本当の理由なんて彼自身にしか分からないけれど、省庁勤めで真面目に立派に仕事をして、自分なんかより余程稼ぎだって良かったに違いない彼のような人がどうして自ら命を絶ってしまったのかと思うと本当に悔やまれてならない。彼がこの世を去ってから半年くらいでお父様も亡くなってしまったとのことだったけれど、そんな辛い状況でも一人気丈に生きていらっしゃるお母様とたくさんお話しができたことは本当に良かった。あと、とりあえず捨てないで全部とってあるけど私全然音楽わからないから、記念に何か持っていっていいよ、と言われてこのCDを頂いてきた。大学時代の私の友人ならばこれを見てアッと思うに違いない。今、これ、私の手元にある。ジャケットは色褪せていたけれど、これ聞くと色々と思い出すなぁ。

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2016/09/03 (Sat) 曇り(下界)
朝から秋刀魚を焼いて頂いたりして遅めの朝ごはんを食べてから、ご自宅近くの池田ワイン城というところへ観光。
池田町からほど近いところにある音更町 へは車で送っていただき、最後に音更の友人のところへ顔を出す。東京に住んでいた時は1年くらいご近所だったけれど、まさか嫁いでこんな遠くに行ってしまうとは思わなかったなぁ。パンを焼くのが好きなのは聞いていたけど、まさか編み物もこんなに上手いとは・・・存じ上げませんでした。
オトプケニットの中の人。
彼女も夕方から帯広に用事があるとのことだったので、二人で一緒にタクシーで帯広へ。時間的に結構ギリギリになってしまって、タクシーを急かせて空港にチェックイン。先輩の実家で食べた朝食以来食べ物食べてないんですが!(豚丼食べたかった・・・)
空港で唐揚げかなにかを頬張りながら搭乗手続きをしてドタバタと飛行機に乗りましたとさ・・・

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自宅に戻ってから、真っ先に、テントを修理に出した。私が愛用しているのはエスパースのマキシムミニ(現在廃盤)という1-2人用テントだ。キツネに齧られた穴を修理してもらおうと思ったのだが、一緒に直して貰えるところがないかとあちこち見ていたら、フライのシームが古くなって剥がれているのがわかったので、シームを全てやり直してもらった。一週間経たずに綺麗に修繕されたテントが戻ってきて、日本メーカーの底力を痛感したものだ。それからレインウェアの撥水を見直した。すっかり撥水の落ちたレインウェアはもう意味がないのかもしれないと思ったけれど、専用洗剤で洗ったり乾燥機にかけたり撥水スプレーをかけたりすることで大分性能はあがった。

トムラウシの遭難事故の本に書いてあったが、命を落とされた方と生き延びた方の境目は、元々の体力の差こそあれ、防水性能のきちんとしたレインウェアを着ていたどうか、レインウェアの下に保温用のインサレーションを着ていたかどうかだったといって過言ではないそうだ。全員ゴアテックスまたはそれに準ずるレインウェアを着ていたらしいのだが、ウェアがきちんとメンテナンスされていなかった人が命を落としているのだということだった。私もそれなりに何年も山をやっていて、自分ひとりである程度あちこち行けるようになって経験値は上がっているけれど、持ち物は確実に古くなっていて、状態が悪くなっていることにはなかなか気付けていなかった。私は何かと物持ちが良くて、色々なものを大切に、長く使うようにしているのだけれど、それらの道具がきちんと性能を発揮できない状態になっているのであれば、メンテナンスをしたり、それでもダメな場合は買い替えたりするべきなのだろう。道具は飾りではないし、登山用の服はファッションではない。いずれも自分の命を守ってくれる大切な山行のパートナーだ。これから先、手元にある道具や服はどんどん古くなるけれど、常にコンディションを見て、メンテナンスをして、ダメな時は見切りをつけながら、自分の山行に最も相応しい道具や服と一緒に山に行きたいと思う。

北海道は広くて、山のスケールも大きくて、そして初めて入るには勝手が分からなさすぎて、土地勘もないし、山ではトレイルの具合がわからないし、下界に降りてもバス・電車の様子がさっぱりわからなかったけれど、色々な人に助けられてなんとか旅を終えることができた。こんなに長いこと停滞するのは初めてだったけれど、とにかく安全に下山することだけを第一に考えて行動できたのは良かったと思う。あと、以前持っていたラジオを失って以来、長いこと手元にラジオがなかったのだけれど、今回の夏休みの1-2日前に思い立って突然買いに行き、それを持って行ったのも本当に良かった。もっと天候が悪くなったらマズイ、と思って予報もわからずに突っ込んでいたらきっと大変なことになっていただろう。ある程度先が見えていて、この日になったら動けるだろう、という見込みがあったからこそ余裕をもって停滞できたのだ。

とりあえず今回は事故なく山行を終えることができたので良い夏休みだったとは思うが、次行く時は是非トムラウシを含めた縦走コースを踏破してみたい。しかし改めて思うのは、天気、日程、アクセス、色々な意味で、多くの人にとってトムラウシは遠く深く憧れの山なのだろうなということだ。きっと事故で命を落とされた方々も、長く憧れてやっと到達した場所だったに違いない。そしてきっと、亡くなった誰もがお天気のいい日に歩きたかったなと思いながら意識を失っていったのだろう。ショッキングな事故だったけれど、今こうして幸運にも山に行ける私達が事故から学べることはまだまだたくさんある筈だ。

道程の後半で山以外の要素が混ざってきて、ブログとしては若干収拾がつかない感じになってしまったけれど、色々なことを考えさせられた旅となった。とにかくあれだ、山で死んだらいけない。無論、下界で死んでもいけない。

2016/09/02

20160827-0903_大雪山・台風停滞explorer(前編)

「先輩、亡くなったんだって。それがね、自害だったという事らしいんだ」

2015年1月某日、暫くぶりに大学時代のサークルの同期から連絡があった。大学でアルトサックスを吹いていた私の憧れの先輩は2014年の暮れに息絶えた状態で発見されたが、亡くなったのは12月25日頃だろうと推定された。彼とは大学を出てから会う機会もなく、人伝に近況を聞くことがあったりなかったりする程度の関係だった。まさか数年振りに耳にする近況がこんなものだなんて本当に信じられなかったけれど、彼に限ってはあり得ない話ではないなという感じもしていた。知らせを受けて、皆でお手紙や写真などを北海道のご実家へ送ったものの、葬儀に出席して亡骸を目の当たりにしている訳でもなかったので、本当に亡くなったのだろうか、と実感はいつまでも湧かないままだった。これまで通りまた暫くしたらどこかで何かしているというような風の便りが届くような気がし続けていた。

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今年の私の夏休みは9日間だった。これは今の仕事を始めてからとったお休みの中でも一番長い期間になる。さあどこへ行こう、国内か海外か、稜線か沢か。そもそも9日間も繋げて歩けるような場所は国内にあるのだろうか。

新しい、行ったことのない場所にそろそろ手を出してみようか、と思いついたのが北海道だった。初めてならやはり有名どころで大雪山だろう(というか、あまりにも知らなさすぎて他にすぐ思いつくような北海道の山がなかったw)。別に今まで大雪山に行きたいという思いを温めていたとかそういうことは一切なく、ただ名前を知っている程度で何も知らなかった。調べてみるとここは等高線もゆるく、穏やかなルートであるように見えた。アップダウンの激しい、きつい縦走の好きな私にとって、この稜線は物足りなくはないのだろうか。しかも大雪山を南北に縦走しても、せいぜい4-5日で終わってしまいそうだし、9日も要らないのではないだろうか。あれこれ考えあぐねている中でふと思い出し、先輩の実家から送られてきた手紙を見返し、封筒に書かれていた地名を調べてみると、帯広からほど近かった。もしかしたら立ち寄れるかもしれない、レンタサイクルもあるし、別の友人の家にも顔を出せるかもしれない。そう思って出発の1ヶ月ほど前に押さえたのは8/27朝・旭川空港in→9/3夜・帯広outの航空券だった。

予め行き先を決めてしまった場合に気になるのがお天気である。台風10号ライオンロックは日本のずっと南にいて、しかも南下していたのに、あろうことか私の夏休みが近づくにつれ北上を始めた。動きはのろく、時速10kmにも満たない。この後この台風はどう動くのか。そもそも北海道行きをキャンセルすべきか否か、行ったとしても前半は山行に充てるのではなく別のことに充てて、後半の台風一過を狙うべきなのではないか。試行錯誤を毎日毎日、気象庁の発表のたびに繰り返し、最終的に出した結論はこうだ。初日から歩きはじめて大雪山を4日で抜け、その後バスと電車で移動して芦別岳を登り、再びバス移動で友人宅と先輩の実家へ顔を出す、しめて8日間。立てた大雪山の計画は以下の通り、CT計算はおよそ×0.8。

【1日目】
旭岳登山口-(ロープウェイ不使用)-旭岳-北海岳-黒岳石室
【2日目】
黒岳石室-黒岳-黒岳石室-北海岳-白雲岳(ピストン)-白雲岳避難小屋-忠別岳-五色岳-化雲岳-ヒサゴのコル-トムラウシ山-南沼キャンプ指定地
【3日目】
南沼-三川台-コスマヌプリ-オプタテシケ山-ベベツ岳-美瑛岳-十勝岳-上ホロ避難小屋
【4日目】
上ホロ避難小屋-上富良野岳-三峰山-富良野岳-上ホロ避難小屋-三段山-吹上温泉

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2016/08/27 (Sat) 晴れ
11:15 旭岳登山口
↓ - 1:25
12:40 姿見駅分岐
↓ - 1:40
14:20 旭岳山頂
↓ - 0:58
15:18 間宮岳分岐
↓ - 0:42
16:00 北海岳
↓ - 1:05
17:05 黒岳石室
朝8時半には旭川に着いてしまうんだから凄いなぁ(久々の飛行機w)
旭川に到着してから暫し時間があくものの、旭岳の登山口に直行するバスがあるのでアプローチもラクラク。新千歳入りするのは絶対やめたほうがいい!という友人のアドバイスを聞いて正解だった。到着して身支度を整え、人の一切いないルートを歩き始める。ロープウェイ上部の姿見駅までCT2:30とあったが結局1時間半足らずで到着してしまい、旭岳山頂まで3時間しかかからなかった。とはいえ全然楽しい道でもなく、ぬかるんでいて歩きづらいので、歩く価値はない感じ。でもロープウェイがお高いので、その分節約にはなったような。。。
ぬかるみが酷いのであちこち板が渡してある。
北海道まできてこんな道歩きたくない!と思ってしまった・・・
ようやくロープウェイ利用の方々と合流する。一気に広がる大パノラマ!(ガス)
ルートがきついとか、きつくないとかそういうこと抜きにしてこの景色見られてよかったなと思った。
圧倒的なスケール!
花が咲き乱れる縦走路。左側は途中のテン場。
ヒグマの巣窟とのこと・・・。ものすごい地形
台地のようなものがポコポコしている不思議な地形。
黒岳石室の小屋でテントの受付をすると、通常はルートを記入する欄があり、ここも例外ではなかったのだが、誰一人としてそこに記入していなかった。書かなくて良いんですかと尋ねると「今歩けるルートはひとつふたつしか無いから、別に書かなくてもいいよワハハ」と、小屋番のおじさんの答え。すいません私トムラウシ方面に3泊4日なんですがと言うと、ギョッとして色々聞かれる。今日ここに到着するまでの所要時間、装備、普段歩く速さ、ソロのテント泊の経験等。その会話の中で、明日・明後日午前は晴れそうだけれど明々後日8/30は荒れそうだから停滞した方がいいかもしれない、とのアドバイスを受ける。予定だと上ホロ避難小屋に居る筈だと伝えると、避難小屋に居るべきだしそこなら安全だとのこと。停滞日が出てしまうのは織り込み済みだったので、天候を見ながら停滞日や停滞エリアを判断しようと心に決めつつ就寝。
登山口に続く道路があちこち台風のため崩落したり封鎖されたりしていて歩くルートが限られており
ここのテン場はとても賑わっていた。
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2016/08/28 (Sun) 晴れのち霧雨
5:40 黒岳石室
↓ - 1:07
6:47 北海岳
↓ - 0:50
7:37 白雲岳分岐
↓ - 0:23
8:00 白雲岳山頂
↓ - 0:20 (おじさんと話しながらのんびり)
8:20 白雲岳分岐
↓ - 0:40
9:00 白雲岳避難小屋
↓ - 2:18
11:18 忠別沼
↓ - 0:42
12:00 忠別岳
↓ - 0:45
12:45 忠別岳避難小屋分岐
↓ - 0:41
13:26 五色岳
↓ - 1:06
14:32 ヒサゴ沼避難小屋分岐
↓ - 0:38 (10分程悩んだ時間含む)
15:10 ヒサゴ沼避難小屋
黒岳の西にある桂月岳に登って日の出を拝む
黒岳の方にも足をのばす
朝は晴れ。今日明日できっちり進めるといいな、と思いながら5:40に小屋を出発。白雲岳あたりまでのCTを見ると、地図に書かれている時間の半分くらいで推移していて若干早すぎる感があった。そんなに速く歩く必要もないなぁと思いつつ、白雲岳で出くわしたおじさんと会話を楽しみつつ白雲岳のピストンではのんびり歩く。しかしその後のアップダウンのないコースではCT0.8で歩けず、段々とバッファが減ってきた。ほぼほぼ予定どおりの時間で進む。
昨日歩いた道を途中まで戻るような形で本日のルートに入る
見たことのない花
分岐に荷物をデポして白雲岳ピストン。山頂に向かって歩いているのにだだっ広い平地が。
ここで調査中の環境庁のおじさんに出くわす。この人とは今回の山行の最終日に再会した。
途中で一緒になった、同じくピストン中のおじさんに撮ってもらったが、すでにガス。
白雲岳避難小屋が見えてきた。ここは避難小屋だけれど、一応管理人さんがいる。
白雲岳避難小屋に到着する少し手前の水場で、北海道大学の学生2人が水をそのままゴクゴク飲んでいるのに出くわす。北海道の水問題といえばエキノコックス、、、煮沸とか浄水しないんですか!?と尋ねると、北海道の山どこもエキノコックスだし、いちいち煮沸とかやっていられないし、何年かに一回病院で検査すりゃいいんですよとのことだった。なるほど逞しい・・・。この日のルートはこの後彼らと抜きつ抜かれつで進むことになった。2人はヒサゴ沼避難小屋に2泊し、調査をしてから下山するとのことだったが、私にもヒサゴ沼避難小屋で泊まることを勧めてきた(本人たちはテント泊とのことだったがw)。
ガスり始めた白雲岳避難小屋界隈。すでに雨がぱらついてきて、レインウェアを着る。
早くも天候は崩れ出し、周囲はガスでほぼ何も見えなくなった。この区間の景色が最高に良いので、晴れの日をここにあてるべし!と友人から念押しされていて、今日は晴れる筈だし満喫できるぞと思っていたのに、まさかの1日中ガスでやさぐれながら歩く。そのうち霧雨も降り出し、最早楽しいのかどうかも怪しくなってきた。
雨でこういう道は萎える・・・風は避けられるけれども・・・
たまに雲が切れて景色が見える(けれどもこの程度しか見えない)
14時半にはヒサゴ沼の分岐に到着したが、この先予定通り南沼まで進むか、それとも学生らとヒサゴ沼避難小屋にとどまるか悩むこと暫し。黒岳石室のおじさんは29日午前中は晴れると言っていたが、そもそも28日は晴れると言いながらこの雨だ。ひょっとすると台風の速度が上がっているのかもしれない。いずれにしても台風情報が知りたい。落ち着いてラジオを聴くためにも、明日の天気が荒れて停滞になった時のためにも、今夜はヒサゴ沼に泊まるのが良いだろう。10分ほどの熟考ののちに道を降り、避難小屋に到着したのが15:10くらいだった。ガスが酷くて沼の全貌は見えないが、まだ日は高く外は明るい。
ひたすら木道のループを歩いているんじゃないかという気さえしてくる
沼が5mくらい先までしか見えないのでサイズがわからない
水場は小屋からそう離れていないところにあった。浄水器があったので、沼から取水しても良いかなと思ったが、学生に聞くと、向こうに取りに行った方が絶対に美味しいから取りに行った方が良いとのことだった。夕刻ラジオをつけてみると、どうやらまだ台風は北海道どころか伊豆半島にも達していないとの気象情報。とは言ってもこの空の様子だと明日も晴れる気配はない。

19時半頃、真っ暗のガスの中を若いカップルがトムラウシ側から歩いてきて小屋に到着した。双子池の野営場所からやってきたらしかったが、いくらなんでも歩みが遅すぎやしないだろうか。色々話しつつ就寝。

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2016/08/29 (Mon) 曇り時々雨・強風
停滞1日目。
外は雨こそ酷くなかったが、風がピューピューと鳴っていた。若いカップルは、忠別まで行ってみてもしもまだ歩けそうなら白雲小屋まで行くという。彼らはラジオがなかったので、私のラジオで一緒に予報を聞いていたが、ようやく台風は伊豆に上陸するとかしないとか言っている。まだそんなところにあるのにこんなに天気が悪いのかと愕然とする。カップルは、まだそんなに遠くにあるなら大丈夫だろうという判断で出発していった。私は、この先に控えているトムラウシがそんなに気軽な山ではないはずだと踏んで、停滞を決める。持っている食料の数を数えると、朝食3回分と夕食5回分といったところだった。割とギリギリ、というか動かない日に満足に食べるほどの余裕はない。棚を開けるとカンパンの文字のある段ボールがあったが、中を見ると割れた瀬戸物とかが入れられていて、
肝心のカンパンはなかった。

夕方頃、一度北大の学生のところに顔を出し、明日どうする予定ですかと尋ねることにする。あまり酷ければ停滞、問題なければ下山するとのことだった。出発するならば朝5:00には出発するとのこと。トムラウシの登山口に通じる道は通行止めで使えないため、この小屋から一番てっとり早いと思われたエスケープルートは、化雲岳から天人峡(道路は通行止)に降り、そこからトレイルを通って旭岳温泉まで抜けるルートだ。しかし化雲岳から天人峡までの道はぬかるんでいて歩きづらいと書いてある。こんな日に歩くルートではないだろうというのは明白だった。計画通り十勝方面に抜けたいという気持ちはもちろんあったが、それと並行して、安全に下山する方法も考えておくべき段階に来ているなという気配も薄々感じ始めていた。もしも一緒に、車のある層雲峡まで戻るのなら、車で送りますよ、という申し出をいただく。有難いことだ。
昨夜考えていたエスケープルートについても一応訪ねてみると、彼らももう久しく天人峡へ抜けるルートは歩いていないという。天人峡から旭岳温泉へ抜けるルートもあるにはあるけれど、通ったことあったかな、というレベルらしい。頻繁に山に来ている学生がこう言うぐらいだから、私なんかがエスケープとしてカウントして良いルートであるとは到底思えない。ここは却下だな。

ラジオでは、8/30から8/31の未明にかけて北海道に台風がやってくるとのことだった。

今回の旅のお供は「トムラウシ遭難はなぜ起きたのか」という本。事故のことは当然知っていて、本の存在も知っていたけれどまだ読んでいなかったので、トムラウシに行く前に是非読んでおこうと思ったのだ。小屋の風上側は雨漏りがするということや、トムラウシの近くの沼が当時雨で氾濫していたということ、彼らがどのような服装で風雨のダメージを受けてどのくらいの時間をかけて命を落としたかなどが詳細に書かれており、それを読む限りとてもではないけれど無理して進むようなトレイルではないなという気になってくる。そもそも今回初めて足を踏み入れた山域で、本州のトレイルとの違いも感じていたし(その違いが何なのかはうまく説明はできないけれど)、兎に角安全に歩みを進めて生きて帰れる自信がないなら歩くべきではないなとぼんやり思っていた。

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2016/08/30 (Tue) 雨・暴風
停滞2日目。
4:00頃起床。外は大荒れで、聞くまでもなく学生2人も停滞だろうとは思ったが念のため確認に出向く。案の定停滞するとのことだったので安心して再び寝袋に入る。しかし安心したのも束の間、5:40頃になると彼らが避難小屋にやってきて「矢張り出発します」とのこと。しかしこの山域に慣れていて、若さ体力ともに私に勝る彼らがこの嵐の中を歩けたとしても、私にそれと同じことができるという保証はない。一緒に歩けなくなった時、彼らに私の世話をしてもらうわけにもいかないし、私はこの状況の中を一人で歩き通す自信はない。彼らは黒岳石室まで、もしかすると今日のうちに車のある出発地まで戻るらしかった。私の出した結論は、「停滞」。情報を聞き出すだけ聞き出し、連絡先を交換した後、私はひとりになった。

本当にカンパンは無いのだろうか、と思って再度棚をしっかり確認してみると、下の段ボールの奥の方だったか、大量のカンパンの缶が出てきた。もしかしたらトムラウシまで歩くかもしれないということを考えると、あまりに何も食べないでいると筋力が落ちすぎてしまうだろうと思い、少しずつこのカンパンでカロリーを摂ることにした。因みに期限は5年以上過ぎていたが気にしない。
持参した本も読み終え、棚に置いてあった文庫本も読み始める。
(死神という短編集もあって、最終的にはそれも読んだ。しかしあまり置いて欲しくない本だよなぁ)
たまにお湯を沸かして緑茶、珈琲、ウィスキーをローテーション。
カロリーのないお茶や珈琲といった嗜好品には、こういう時本当に救われる。
寝たり起きたり、起きたり寝たり。午後になり、次第に雨脚も風も強くなった。小屋が揺れる。ひょっとしてひょっとしたら屋根が飛んだり小屋が倒壊するかもしれない。最悪の事態を想定して、寒くもないのに小屋の中にテントを張ってその中に避難することにする。万が一屋根が飛んでもテントに全て入っていればなんとか対処できるだろう、それに風雨がうるさいのでシェルターを張った方が多少は静かに眠れるかなという期待もあった(実際は大差なかった)。夕飯を食べ、アルコールを飲んで早めに一度眠っておこうと思うものの、夜中何が起きるかわからないのでそうそう酔っ払う訳にもいかない。その微妙なさじ加減が難しい。

一旦眠ったものの、物凄い轟音で目を醒ますとまだ時刻は18時半。台風が一番酷くなるのは30日から31日にかけての未明頃というからまだまだこれは序の口なのだろう。待てばいい、ただただ嵐が去るのを待てば良いのだ。頭ではそう分かっているのに、今ここに自分が居なければならないという状況や、今この瞬間にはどうすることもできないしじっとしているしかないという状況はとても恐ろしいもので、漠然とした不安はどうやっても拭えない。
窓枠のところから激しく雨漏り。本に書いてあったとおりだ。
今回は、本に書かれていた方ではなく、扉を入って右側の壁が雨漏り。
こちらからずっと雨が吹き付けていたため。
途中、起きているのか眠っているのかわからないような状態が続き、夢もたくさん見た。一番覚えているのは、母親が車で迎えに来て「ほら帰るわよ」と私をどこかへ連れて帰っていく夢。ああなんだ、車ですぐ来られるんだから、セクションハイクで縦走していけばいいんじゃないか、台風が行ったらまた山に入って縦走を続ければいいや、なんて思いながら目を醒まし、ああそうだよね、また車でここまでくればいいじゃない、と本気で思うのだけれど、いや待てよここはそうそう下山できない稜線の途中だったんだっけ、歩かないと帰れないんだっけ、と現実に戻るのに時間がかかってみたり。そんな類の夢を数え切れないくらいたくさん見た。寝てはいたけれど、眠れていなかったのかもしれない。とても不思議な時間が流れていた。夢か現か、というのはまさにこういう状態のことを言うのかもしれない。

次に目を醒ますと0時半頃だった。それでもまだ風雨は酷くなるのかもしれない、と思うと本当に恐ろしかったが、怖い怖いと思いながらもトロトロと眠りについてしまって、気付いたらもう朝4時をまわっていて、台風のピークは過ぎたようだった。小屋は倒壊せずに済んだ。

後編へ続く